全体を学ぶ学校2024 <シリーズ “育てる” と “食べる” のいい関係づくり その1>  未来への希望 小規模家族農業と酪農の世界  レポート

全体を学ぶ学校2024  <シリーズ “育てる” と “食べる” のいい関係づくり その1> 
未来への希望 小規模家族農業と酪農の世界 
2024年9月14日(土)~16日(月/祝) 北杜市武川町にて開催

自然農の実践者 川口由一さんに学び、ご自身も北杜市長坂町で自然と共にある農業を続けておられる三井和夫さんと、岩手県で家族酪農に従事しておられる菊池暢子さんをゲスト講師にお招きして開催した今年2回目の全体を学ぶ学校。
テーマの「食」の現状は知らないことがたくさんあって、考えさせられることも多かったですが、何よりみんなの意識はそこに止まらずどんどん広がり、参加した一人ひとりの発する言葉からまた次の課題や思いが湧いてきて、生きる上での大きなテーマにたどり着いた気がしています。
このテーマはシリーズとして今後も継続したいと思っていますので、今回参加できなかった皆様も是非次回ご参加いただけると嬉しいです。
お忙しい中講師を引き受けてくださったお二人と、参加してくださったみなさまに心からお礼申し上げます。

Earthmanship
岡田直子

三井さんの畑実習

森の実習〜ケアテイカーになる時間

菊池暢子さんのお話

流れのケアテイカーになる時間

美味しい食事の数々 一部ご紹介  〜他にも もっと色々ありました❤️

参加者の感想

日々の生活が「分業」で成り立っているのが当たり前になってしまっている現在、お世話になっている食べもの、着るもの、その他あらゆる物に関して、一つひとつ分解して見てみる。それを子どもたちに伝えたり、一緒に見ていく機会や時間をもつ余裕、余白の時間が大切だなと思った。大人だって知らないこと、勉強不足のことはたくさんある。それも見せながら、一緒に学んでいきたい。大人が一足先に知った、わかったことがあれば、それを伝えればいい。
今回、三井さんや暢子さんのような、想いのある実践されている方にお会いし、野菜やソーセージなどができるまでやそれ以前の歴史やバックグラウンドをお聞きすることができた。ますます応援の気持ちが膨らんで、お二人から買いたくなりました!実際のコミュニケーションから生まれることの大きさを実感した。同じようにスーパーの野菜やソーセージの生産者さんにも会ったり、見に行ったりしたらどう感じるだろう?(見せてくれればの話だけれど)
食べているものの大元を知らないまま日々食べることが心配なくできる日本は幸せなのかもしれないけれど、今、本当に幸せ、安心なのだろうか?
いろいろなことに思いが繋がる心の広がる時間でした。3日間、ありがとうございました!!

大切にしたいこと、守りたいこと、思い(=ビジョン)を伝える。また、それに触れて知るには、人と人が出会い、言葉だけでなく文字からではなく、肌で感じ取ることが最も大切な経験になるのではないかと感じました。体験に勝る学びはないなと。
今回、話を聞き、食べものが豊かな食べものになった。ただの野菜や肉(ソーセージ)ではなく、背景のあるストーリーのある食べものになりました。これは私にとって豊かなことで食べることの喜びに繋がるなあとも思いました。喜びを分かち合うことをこれからもやっていきたいと思います。

人が生きるってことはシンプルなことのはずなのに、難しくなってしまっています。ここへ来て美味しいものをいただくという体験自体が学びです。

「農薬をやめたら虫たちもおだやかに暮らすようになった。」
「いのちが喜ぶようなやり方でやっていきたい」
「耕さないと色々なものが蘇ってくる」
「何もない中で生産していける。草→ミルク、草→肉」
「土の健康を取り戻す」
「子どもが分断されている。大人も同じ。」
「畑はひとつの遊び場」
「人間の手でできることをする。自分の行動のあとの結果がわかる。」
「自分が生きているのと同化する」
「自分の仕事が社会のなかでどういう繋がりがあるか見えていない。生き物として日々変わりつつある。休みなしの情報があるから振り返ることができない。」
「ぼーっとする場所があれば息継ぎできる」
今回いただいた言葉を反芻、咀嚼しないと、と思います。ありがとうございました。

とても充実した3日間、ありがとうございました。
三井さん、暢子さんと過ごして考えて思っていることを実践されている姿を聞き、とても覆うの知識や知恵をおもちの中、それを柔軟に取り入れて、仕事/生活されているのを楽しそう、いや大変なんこともあるんだろうけれど、素敵な生活だなと感じました。
日々の生活は楽しい方がいい。日常の小さなことに幸せを発見できたらストレスの少ない日常が送れるなと今回最後に思いました。
種まきしたあとの土を被せる三井さんの手捌きが軽やかでこれは手でしかできない柔らかさでいいものを見た!という嬉しさ。菊池牧場のソーセージを皆で味わって美味しいねと言い合う時間。ケアテイカーで風邪が通ったときの森が深呼吸できたのがわかった時。山梨だから味わえたけれど、東京に戻っても発見を楽しみたいです。
消費者が知ることをもう少し意識して過ごすことを課題にしたいです。

三井さん、暢子さんにお会いでき、お話を聞ける機会を得たことにまず感謝します。
「命が喜ぶ生き方」は人各々でしょうが、それを考えながら「土の健康」を思って生活することが小さいときから私にとってテーマだったように思います。漠然とした言葉になるのですが「土の健康」は地に足がついた行動と思考(感情がともなった)に自分が納得できること。突き詰めれば教育や環境から得たビリーフを自覚して乗り越えて、生まれ持った感性と生きるエネルギーに戻ることだと思います。
ずっと命が喜ぶ生き方を求めていきたいと思います。

ここ最近、忙しかったり体調が万全でなかったり、ここに来て2日目の朝くらいまでなんだか閉じている感覚があったが、森のケアテイカーをして、3日目に流れに触れて、終わる頃にはすごく元気になっている自分がいました。心も身体も。
やっぱり大人が心から楽しそうにしている姿とか、暮らしと労働が一体となっている時間を過ごせる喜びとか、そういったものは本当に大切だなと思って。ともに暮らし、学び、働ける全体を学ぶ学校という場に感謝しているし、夏のびや普段の自分のフィールドで子どもたちと共に過ごしたい時間ってこういう時間なんだよなって思い出させてもらいました。
自分の生命を楽しみ、喜びながら生きる。
自分自身の生活、家族としての生活のあり方を、パートナーといろいろ考える時期にきていて。お互いの仕事どうする?とか、子どもをどこで育てる?とか。でも、2人に共通するキーワードは、「暮らしたい」というものでした。今回、三井さん、暢子さんの暮らしに触れることができ、「お金から始めない」ということも受け取り、ものすごく可能性が広がったひらけた気持ちでいます。帰ってパートナーに今回の学校のことを話すのが楽しみです。参加できてよかったです!ありがとうございました。

一番心に残った言葉は「命が喜ぶ生き方」。この生き方をすれば「命を喜ぶ生き方」にも繋がると思いました。
人は土から離れることができないことも改めて実感しました。
100%完璧を目指すのではなく、土に根ざした暮らし、生き方を多くの人がゆるやかに楽しく実践できたら…
その姿を次世代の人に(いや、同世代の人でも!)見せることができればと思います。
一点を見つめるのではなく、全体を見る目と心を持って物事に当たるということも大きな学びでした。朝のwide angle visionがうれしく、楽しかったです。
皆でつくったごはんもおいしく、有り難かったです。
光くんの畑もありがとう!でした。「なおこさん」から「なおさん」になり急に今まで以上に親しくなれたとうれしくなりました。なおこさんはアースマンシップの母であり、友であり、家族なんだと思いました。お招きいただきありがとうございました。つたない話にもかかわらず、熱心に聴いてくれて感謝でした。 <菊池暢子>

話したいだけ話してもらう機会に感謝です。
同じ空間を過ごしてくれた皆さんがどんな生き方、暮らしをされているか、尋ねることができなかったのは残念です。
菊池暢子さん、めったに会えない本物のお百姓さんに会え、頼もしかったです。
皆さん、ありがとうございました。 <三井和夫>

後日、ひとりの参加者から届いたレポートです

1.ひと一人の「能力」に対する捉え
 夏のびに引き続き、(夏のびに増して)、ひと一人の「能力」の捉えを皆や社会がどのように行なっているのか、どう行なっていくかを考える機会になりました。
 3日目の振り返りで暢子さんが、参加者がここでの寝食のために必要なことを行うときの様子について触れられました。アースマンシップの食事の準備片付け、清掃整備では、各々ができることを自然に分かち合って行われます。役割を明確に分担にしたり、一人に求められる作業量の想定があったり、作業量を比較してその差に基づいて賞賛したり咎めたりすることは起きません。アースマンシップに来るとなぜか、その人のマイナス面よりプラスの面が引き出され合う……という不思議を今回も感じることになりました。それが自然、当たり前になりつつあったので、暢子さんが振り返りで触れてくださり、改めて気づくことになりました。
 「アースマンシップを離れたら、別の顔や一面が現れるのか…?!」と、笑い話になりましたが、同じ人でも属するチームの状態によっては、良さを引き出し合いきれずに、ギスギスしながら活動する経験は誰しもあるのではないかと思います。不満を溜めたり、ときに人のいないところで愚痴や悪口を言ったりしながら、なんとかチームの目的とすることに向かって進行している組織やグループは少なくないと思います。
 そのようなギスギスしたチームにはどのような意識が働いているのかを考えると、たとえ言葉では「フラットだ」と言っていたとしても、大前提として上下や管理・評価の視線、捉えがあるのではないかと思います。giveがgiveとして互いに受け取られずに、「もっと生産性をあげてほしい」「能力を上げ、成長した方が良い」という圧(基準を上に引っ張り上げようとする引力?)がかかったり、その反発として「管理側がもっとしっかりしてほしい」「口出しするばかりでなくもっと手を貸してほしい」「動きやすい体制を整えてほしい」と恒常的に思ってしまうような体制の中にいたら、アースマンシップで過ごす時とは「別の顔や一面」は容易に引き出されてしまうのではないかと思います。
 このような意識で働いていたり、暮らしていたり、そのような捉えや視線の中で自分のもつ力を場に出したり、使っているのだとしたら、その人は、人の役に立つ歓び、役目を与えられる歓び、自分の力がその場において使われることの喜び、生きている歓びを感じるのは難しいだろうと思います。存在することに対する絶対的な安心感の欠如は「〇〇の方法(農法、教育、学校)こそが優れている、正しい」「それ以外には価値がない」「自分たちだけがものの道理をわかっている」というような絶対視、すがる気持ち、人を見下したり蹴落とす言動、仲間をつくって安心し紐帯を強める動き……そういったものに転じていくのだと思います。
 もし親やまわりの大人がそのような意識の構造(構造の意識?)の中にいたら、家庭における ‘子ども’ はその影響を諸に受けやすいだろうし、そのまま年齢を重ねてしまったのが今の日本の大半の大人なのもしれないとも思います。
 三井さんが仰ったように、自分の今いる場所での立ち位置をもう一度、(あるいはまず初めに)見直すところからなのではないかと思います。「今いる場所もきっと、既に可能性のある場所のはず」という三井さんがさらりと付けしたことばに、とても重要な意味があると思いました。

2.“30年” を生き切りながら、また出会う
 三井さんとの別れ際、「また三井さんに学びに来たいです」と言うと、その場にいたりゅうりゅうと私に対して、「皆さんが普段どんなことをされているのか、まだ分からないけれど……また、話しましょう」と返してくださいました。確かに、今回初めて「ゲスト」と「参加者」として出会った私たちは、自分が普段どんなことを考え、どんなことをしているのかについて三井さんには最小限しか伝えられていません。三井さんからこの返答をいただくまで、伝える必要もあまり感じていませんでした。
 「学びに来たい」ということばの裏には、私は(農業や自然農、もっと言えばいのちが歓ぶ生き方についてまで)無知で、空っぽで、これまで実践を積んでこられた三井さんの経験や知恵を分けてもらいに訪れたい、教授を請いたい、というような意識があったと思います。しかし、そのような “近づき方” は、とても自然なかたちで退けられました。
 人生経験も生きている年数ももちろん違うけれど、それでも私も約30年の年月を生ききってきたはずです。そんな私が、一日一日を、いのちが歓ぶ生き方を追究しながら生ききっている三井さんにどのように対峙し、新しい今日、出会うことができるのかを問われているのではないか……。
 このように書くと厳しい感じがしますが、実際の三井さんはそんな厳しい態度ではなく、どこまでも柔らかく、軽く美しい所作のまま、違うあり方、出会い方をぽんと示してくださったような感じがしました。「生きているのではなく、生かされていると思うと、肩の力が抜ける」と仰ったような、力みの抜けたこころとからだのまま、思考し、ことばを受け止め、返してくださっているような感じです。
 人と人が出会う、再会する、また会いたいと思う、会おうとする、そこで交わされる情報や情動……それだけでは表しきれないあらゆるもののやりとりのあり方について、微細だけれど大きな違いをこのように静かに教えてくださったことに、とてつもないパワーを感じています。
(微細だけれどとてつもなく大きな違いを感じ取っているのは、朝の “感覚を開く” 体操でほぐれた身体感覚ゆえかなと思います)

3.小さな歯車同士が噛み合って回る
 さて、そうすると、次に三井さんに会うまで(次回の “全体を学ぶ学校” まで)の私の課題は、それまでの毎日をいかに(しなやかに)生ききって、生きる歓びを感じて暮らすのか、それをいかに追究するか、ということになるかと思います。
 その際、大事な鍵としたいのが、淳さんが見取った、暢子さん・三井さんの問題解決方法です。暢子さんにしても、三井さんにしても、実践する中でぶつかる困難に対して、工夫しながら運営していく際に、自分の家族や仕事、生活世界圏の中だけで解決しようとするのではなく、他の困っている人、もしかしたらもっと困っている人と繋がりながら問題解決していくかたちです。私は、小さな歯車同士が噛み合って、お互いの力を利用しながら一緒に回っていく様子をイメージしました。これは、現代のように、社会が大きなひとつの歯車化するなかで、人びとの幸せのために歯車が回るのではなく、歯車が回るために人が動かされ、回転のエネルギーに飲み込まれたり、小さな歯車が大きな歯車と噛み合わなくなって淘汰されていくような状態とは真逆の世界です。
 私自身のことを具体に考えると、私のこれまでの農や食や農業に対する関心の向け方は、自分が大好きなおじいちゃんのお米を食べ続けるにはどうしたらいいかを考え、家族との関係や自分の仕事のあり方やバランスを考えるにとどまっていました。これでは個人的な好き・こだわりと、社会への不安を解消したいという非常に閉じた話だったと思います。
 「全体を学ぶ学校」<シリーズ“育てる”と“食べる”のいい関係づくりその1>を終えた今、現在の慣行農法や日本の農業と社会の現実と、今あちこちで希望がもたれている道の両方を自分の目で見ながら、変えていく歯車の1つになりたいと強く思っています。それにはまず自分自身が何かが作られ届くまでのプロセスに目を向ける、たくさんのシャドーワークに気づく、物事の道理、理由を一つひとつ知っていくことから始めていきたいと思います。
 そうすることで、大きな歯車をより大きくしたり、その中で小さいものを淘汰したり、大きな歯車を回していくための動力になっていくことなく、小さな歯車同士と噛み合って、生き、生かされて回っていくことができるのではないかと思います。これは、家族経営の農家が点在するイメージでもあり、農業に限らずどんな職種でもどんな活動であっても「いのちが歓ぶ生き方」を一人ひとりが実践している世界のイメージでもあります。

4.私たちがやりとりしているものの流れをケアする
 3日間、そんな思考をしていたわけではなく、ただ美味しいものを食べ、皆で楽しく食べる準備をして、楽しく談笑して、三井さんと暢子さんのお話を楽しく聞いて、楽しく自然のケアテイクをしていただけです。気づいたら考えたかったことを考えられていたし、決意したかったことを決意していた、気づいたら学んでいたという感覚です。「学び」はもっと、苦しさ、大変さも伴った先で勝ち得るものだとどこかで思い込んでいたのかもしれません。目指されているものや射程としているものの広さ、懐深さと、豊かな場の力があって、自分でないものの力が働いて、自分に気づかせてくれたんだなと思います。
 流れのケアテイクも、いろいろな意味深いヒントをたくさん得ることができました。下流の詰まりをまず先に抜くことが、上流からの水を引っ張ることにつながるというのは不思議で仕方ありません。国と国民の関係は上下ではないけれど、嘆かわしいような政策的動きや伝わってくる意識も、私たち一人ひとりの足場、今いる場所を整え、隣同士互いにケアし合うことで、合理的な考えだけでは一見作用しなさそうな働きや引力が働くのではなかろうか、と思います。真っ向から闘おうとする抗いは苦しみがついてきますが、流れをケアするのだと思えば、こんなに楽しいことはありません。
 一人ひとりの存在を「能力」の言い換えで捉えるのではなく、こうした「流れ」の一部分と捉える感覚の方が、心地よく、無理がなく、歓びが湧き出て、その歓びを皆で分かち合えるような感じがします。 頭で考えたり想像する話でなく、からだが体験してこの感覚をもてていることがものすごいこと、希望に溢れたことだと思います。この希望を分かち合って、しなやかに確かに生きていく道をこれからも模索していきたいと思います。

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