全体を学ぶ学校2024
今地球で起きていること〜そもそもの大前提を再検証
2024年9月22日(金)夜 ~ 25日(日)
ゲスト講師:アーサー・ビナードさん
北杜市武川町にて開催
詩人のアーサー・ビナードさんをお迎えして開催した2024年全体を学ぶ学校の最終回は、いろんな意味で自分の中の考えの元になっているものをひとりひとりがもう一度問い直す時間となった気がします。
アーサーさんのお話を聞く時間、森のケアテイカーの時間、身体や目の使い方を学ぶ時間、畑の時間、みんなでご飯を作る時間、みんなで掃除をする時間、みんなで あるいは それぞれが思い思いの人と語り合う時間。
その全てが溶け合って、つながって、全体を学ぶ学校になりました。
Earthmanshipのメンバーもテーマのお話からたくさんの力をいただきましたが、加えてアーサーさんが畑部部長の植物や畑に対する気持ち、やり方に非常に共感されて、自分もやるならこれを目指したいと言われたことが大きな喜びとなりました。
どれだけ時間があっても足りないと感じる2泊2日でしたので、ぜひ次年度に繋げていきたいと思います。
まだまだワクワクは続きます。
木登り大好きなアーサー
楽しくて ハッとすることが多くて ずっと聞いていたいと思った時間
参加者の感想
シェアリングタイムに話されたことをまとめたものが多くありますので、話を聞いている気持ちで読んでいただけたら嬉しいです。
たくさんの言葉、音、感覚を浴びて浸った2日間でした。
遊びは自然の摂理を学んでいる、という参加者の言葉もすごく心に残りました。
古民家と森と畑と朝日や星の下で共に学び、同じものを食べ、心も腸内細菌もたくさん交流した気がします!!!
全体を学ぶ学校、すごいなぁ、本当に【全体】を学ぶんだ!とあらためて。
日常生活で自分が大事にしたいコアな部分がまた強く厚く深くなったみたいで、自分はどんな未来を見たいのか、望むべき姿とは、調和とは、を考え続けるための希望のようなパワーをもらいました。
ありがとうございました!
自分と年の離れた方とか、職場にはいない人と話せたというのは本当に貴重な時間でした。
アーサーさんの話の中で、世の中の真実を知るという話は、全然知らないことばかりだなぁと感じました。また自分の中に自然を持つこと、自然の摂理を感じ取ることが大事なんだなと思いました。
自分の中に自然があれば、不自然なことに気づけるという言葉が心に残りました。
森に入って木を切って、その中で木と木がぶつかり合って競争しあって生きづらいところに人間が手を入れて生きやすくするという考えは素敵だなと思いました。逆に、人間社会の中にいて生きづらい時があり、そういう時僕は自然の中に戻りたくなる。自然をケアするのも人間だけど、同時に人間をケアするのも自然なのかなと感じました。
本当にいろんな人とお話をする中でたくさん刺激をもらって、今までなかなか踏み出せなかったことにもこれから自分も挑戦したい、チャレンジしたい、深めていきたいと思いました。
今回はアーサーさんのいろんな面白いお話を伺えてよかったです。ありがとうございました。
ただ三割くらいはよくわからなくて、ここはそれで終わっちゃいけないのかなと思ったりするので、勉強してからまた話す機会があればいいなと思います。
ただ、今ある定説は相当良くないねとうちの家族とも話しているので、すごく興味を掻き立てられるお話を聞かせていただきました。
最後に、こうした話がすごく農園につながる話だなと思っていたら、参加されたみなさんがすでに当然そのように思っておられるのがわかり、やっぱりそうだなと思いました。
まずは今のこの時代に起きていることは何も今始まったことではなく、違う形を得て私たちの存在を脅かしてるんだなと思いました。脅しにハマっちゃうとブレる。病気になる。ブレないためには身体がおかしいと身体でわかるということが大事、そうしたセンサーを作っていくのが大事、だから「身心」が大事。
ここで体験を通して学んだことの中に私たちが実行できることはあると思いました。これからも違うストーリーでまた来るぞという時に、どういう選択をするのかが大切と感じました。
種を蒔くこと、食事をいただくこと、そうした一つ一つのJOYがヒタヒタと感じられて、私が感じているというより、自分の人智を超えたモノが感じているというか。
見えるものは見えないものに触れ、感じるものは感じないものに触れ、聞こるものは聞こえないものに触れ、というノヴァーリスの詩ではないけれど、それをいつも感じさせてくれるプログラムでした。
また日常に戻りますが、ぶれない身体と心を大事にしたいと思います。
ありがとうございました。
私は音というものが自分にとって大切なもので、この家に入った時にいろんな音が、過去のものかもしれないけれど、聞こえてくるような豊かな場所で、かっこいい魅力的な皆さんとご一緒できたことが、自分にとって豊かな贈り物をもらったような気持ちになりました。
アーサーさんのお話を聞いて、私は感覚優位な人間で、感覚でとらえたことを主に認識していたのですけれど、言葉という音に影響を受けて、アーサーさんの歴史を遡った詳しく丁寧な説明がすーっと入ってきたという自然な体験でした。
それと隣の畑が素敵で、ほんとにここのカブになりたいな(笑)という気持ちになりました。
それとソロタイムで、さっき楽器を吹いてきたのですが、自分という身体はこの身長と幅だけれど、笛を吹いた時に谷全体に響いて音が自分になっていくから、遠くの甲斐駒ヶ岳まで広がっていって自分が広がっていく感じがすごく気持ちが良くて、この場所が自分にとって大きなものになったな、と思いました。
久しぶりの参加だったのですが、前回参加してから人生でいろんな経験があり、久しぶりに日本に戻って来てようやく足が地面についた気がしています。
今回すごくいろんな気づきがあったのですが、楽しみ方が変わってきた感じがあり、すごく嬉しい気がしています。
前回までは楽しいのだけれど、どこか悔しいという気持ちがあり、料理していても落ち着かなかったりしたのですが、何かを得ようとしていた。今回アーサーさんの話の中で、かわいそうと言っていたらダメだな、と。自分自身を可哀想がることで変わることから逃げるというのがあったし、身近な人たちにもあったし、変わりたかったことがそういうことだったなと自覚しました。
アーサーさんの話で、知らないこと、食べ物のこともいいものを選ぶとか時間がかかってもやっていくしかないなと思えて、それが嬉しかった。
可哀想がっている暇はないです。
ニンジンを抜いている時にお腹が痛かったのですが、以前の自分は自分を可哀想がっていたのに、今回はみんなといたかったのでいたのが良かった。
細胞の音、ずんずんというのがすごく印象に残り、大事にしたいなと思いました。
朝のソロの時に、どこからかお囃子のような笛が聞こえ、山の神様かな(笑)と思うような感じで、とてもいい時間をありがとうございました。
今の、お金で動いている現代社会、閉じていたり大変なこともいっぱいあると思いますが、それが今だろうが何十年前だろうが、人が自然の中の大きな輪の中の一部であるということ、自然の摂理にどれだけ調和できるかがベースになるんだな、と。
それを一人でなく、共に過ごせる仲間がいると言うのがすごく心地よくて。
韻を踏んだり、言葉の使い方だったり、心地よくて、英語を翻訳する時に意味だけでなくイマジネーションというのが大事だなと思いました。
全体を学ぶ学校にアーサーさんが来るというのを年度の始めに聞いて、すぐにこれは参加したい!と思いました。本当に来られて良かったです。
この学校には何度か参加したことがあるのですが、今まではどこかちょっとだけ緊張していたのだけれど、今回それがなくなったな、と感じています。
みんな見ている世界が違っている中で、自分が思っていることを出しても大丈夫かな?という緊張があるのだけれど、昨日一日通して、アーサーさんの物語を聴き、淳さんのケアテイカーの物語を聴き、共有できる物語が一つできたというのが、みんなの集まっている中でも感じられ、自分自身が和らいでいるなと思いました。
最近物語というのが大事だなと思っているのですが、物語が繋いでくれるモノがあるなと。
物語というものが、いくつも同時多発的に起こる世の中だなと感じるのですが。
兵庫県知事の話でも、ロックフェラーとか権力を持った人たち、裏で手綱を引いている人たちが、物語の手綱を握りきれない世の中になってきているのかなと。
イーロンマスクのXとかの影響みたいに、たくさんの物語が乱立していて、これもみんな仕組まれているのかなと。
そうなると今回出てきた「身心」というのが大事で、ブレないということが大事だな、と。自分自身の体軸をしっかりしていかないといけないのだなと思いました。
今、帰ってやろうかなと思っているのが、辞書を読もうということです。手で引く辞書が大事だということで、新明海とか広辞苑もあるなとか。その違いがどう違うのか、今ならそれを面白がれる。
わかったという気になる、知っている、という気になってしまうということがある。
例えばケアテイカーで、木を切っていると、次はどこを切ろうかとなる。止まらなくなる。だから一度手をおろして気持ちを戻すのが大事だなと。木を切り続けていると、わかった気になる。でも一旦道具を戻せば、一呼吸おけば、やはり気になるなら切ればいいし、必要なければ切らなくてもいい。
今回のこの体験も日常の延長でありたいな、と思ってます。
ワイドアングルビジョンを普段仕事の行き帰りの街中で使っているのですが、中にはこちらに向かってくる人がいる。でも今朝みんなでやってみたら誰とも当たらなくて。
さっき淳さんがみんながちゃんと周りを見て歩いているから、当たらないんだよと言われて。みんながそうしていれば東京駅でも当たらないんだなと思いました。
いろんな情報が多すぎて不安に駆られることがある。
例えばワクチンは打たないと言っていた人が一気に同じタイミングでブワーッとみんな打ったり。安心を得るために打とうとしたり。どっちが正解なんだ、みんながやっているからそれでいいんだ、というのではなく、一回戻る、というのが大事だな、思いました。
僕は日頃ぼんやり生きているというか、できるだけナチュラルに生きようとしているのですが、その反面僕も好き嫌いもあるし、長く生きていると自分に無駄なフィルターができていて、フィルターにかけて話を聞いてしまう。だから最近できるだけ聞かないのではなく聞き流すようにして、その中で刺さった言葉とかが後でじわっと出てきたりする。
ソロタイムの時、川に行こうとして、ヤブこぎでトゲとかで行けなかったのですが、帰ってきたらそのトゲが残っていた。
今回皆さんから頂いたもの、トゲじゃないですけれど、いろんなものが残っているだろうから後からじわっと出てくるのかなあと思ってます。
常日頃、世の中でいう病気というのを病気とはとらえないという考え方が伝わるといいなと思っているのですが、整体などの仕事をしている人以外にはなかなか伝わらないと思っていました。でもアーサーさんのように言うと伝わるんだと思いました。
自然の摂理という言葉が聞けて、普段使っていなかったなと思い、日本人であるにもかかわらずいい言葉、ピッタリくる言葉を使っていなかったことに気付かされました。
日本語というものに触れた気がしました。
人は見たいもの、聴きたいものしか見ていないから、新しいものが入らない、世界が閉じられてしまう。そういう時に、自然の摂理という言葉がよくわかり伝わりやすい言葉だな、と思いました。
些細な日常の営みの中でいろいろなものにどれだけ気付いていけるかが課題かなと思いました。
身体というのも2022年の本間真二郎先生が今が時代の大きな転換点だと言われていた。
今回のアーサーさんの話でだんだん見えてきて、手の内が見えてきて、やっぱり洗脳を解くというか、教育が洗脳だと。
自分自身の洗脳が始まったのが小学生の頃だから、もう一回その時の自分の感性や社会をどう見ていたのかとか、その頃の自分は身体で考えていたと思います。お腹が減ったとかお腹が痛いとか、自然な感覚でいたと思う。森とか畑にいると今もそういう状態に入れる。
ただそうやって自分が気持ちよくするだけではなく、その先どうしていけるのかというのをアースマンシップで考えたいなと思いました。
今回アーサーさんの昔のラジオとか聞かせてもらっていたのですが、そもそものというテーマは知っていたのですが、勝手に詩人ってちょっと牧歌的みたいなイメージでいたなと思い出していました。
言葉というものを大切にされていて、言葉を扱うこと、それは責任があることだと感じられているのかなと思いました。
話の内容も興味深かったのですが、その時の言葉の選択も興味深く聞かせていただきました。もしかしたらアーサーさんは一つの言葉を選ぶのに20個くらいの言葉の中から選んで使われているのかなと思いました。私も言葉というものをもう少し考えたいなと気づかせてもらいました。
「身心」というところも、今日やはり身体が脅かされているからワクチンとかの問題も起きてしまっていて、そういうことをきちんとしていくことで、これからいい流れを作っていけるのかなという希望を感じました。
悪い人が悪いことをするのは当たり前だけれど、いい人が良かれと思って悪いことをしてしまう。悪い人以上に人を傷つけてしまうとか、というのは本当にあるなと思います。
私も良かれと思って良くないことを言ってしまっているかもしれないので、もっと敏感になっていきたいなと。ここのような学びの場で気づいて、世界を広く見ていきたいなと思いました。
森も更新のための伐採が始まるということで、例えばうちの子が久しぶりに森に来たときに、木が切られた森に驚くかもしれないけど、きちんとその意味を伝えていければと思います。そういう場所があることがありがたいなと思いました。
今回初めての参加でしたが、アーサーさん、また他のみなさんの見てる視点が私とはまた違って、違う角度からいろんなことを見ておられて。私自身は結構同じ場所と同じ人としか交流してこないような、わりとルーティーンが好きで、初めての場所とか初めての人に会うのはすごく緊張するし、新しいことに挑戦することってなかなかできなかったのですが、今回新しい場所と人にお会いできて、180度しか見えてなかった世界が360度見えたような感覚を得ました。
アーサーさんのお言葉がすごくきれいだなと感じたのと、「自然の摂理」や「協力しあっている世界」というフレーズが印象的でした。
ニュースとかもかなり歪められているし、江戸時代から明治期にかけて、古き日本の良さっていうのがどんどんねじ曲げられて今があったり、世界に関しても権力者が優位になっているような世界だなとは思っていたんですが、アーサーさんがおっしゃっていた「世界の素晴らしさを発見していきたい」という思いを持っている方がいらっしゃるということに気づけたので、これからが発展していく良い兆しなのかなと思いました。
SDG’sのことも、自分は日本にずっといたので、アメリカの人がSDGsのことを知らないとか、アメリカの選挙の話とか、知らなかった海外のことも聞けて世界が広がった感じがします。
今日の畑も私にとってはすごく楽しい時間でした。祖父母が新潟で、先祖代々農家の家系で、でも親がもう農家はやらないと言って引き継がなくて、孫の私が農業に興味を持ち始めて、今年の4月に会社を辞めて、上野原というところで農地と環境保全を学ばせていただいているのですけれど、農地が全然できてなくて…。草がすごくてヤブ化しているところを草刈機で刈ってはいくんですが、ほんとにこんなに美しい感じはなくて、野菜も全然できないし、艶感がなんか全然…愛が全然違うなって思いました。
今年は本当に農地が全然できなかったので、来年こそは今いるメンバーで農地を何とかしなきゃねって話し合ってた時にこの学校に誘われて、自分たちの農地の作業のこともあって直前まで参加するかどうか迷っていたのですが、本当に参加して良かったなと思いました。またこれからも学ばせていただきたいと思っています。
9月に続いて2回目の参加だったのですが、アーサーさんのお話を伺って、オイルショックだったりコロナだったり、最近の米不足だったり、いかに自分が「恐れ」「恐怖」「不安」に引っ張られて、その流れの中で流されながら生きているか、日常の中で気づかないうちに「恐れ」が侵食しているかを改めて感じました。
騒ぎは、騒いでいるうちに実感が湧いてきちゃうということもまさにそうだなと思いました。Earthmanshipにここ2年関わらせていただく中で、その不安が情報として入ってくるんだけれど、身体の感覚として いや違うんじゃないかとか、そんなに怯えなくて大丈夫だって思える感覚がだんだん身についてきているのかなと思っている時に、アーサーさんの話を情報として聞けて、あぁそんなカラクリ、そんな意図があったのか、それはおかしいわという納得感とか、気づきがたくさんありました。
ここは身体の気づきということも大事にしている場だと思うのですが、ワイドアングルヴィジョンで景色の見え方がどんどん変わっていくっていうこともそうだし、今回はアーサーさんの紙芝居で「聞く」っていうことの感覚もすごく開かれた感じがしました。紙芝居の途中で5時の音楽が流れた時にそれがオーケストラの演奏のように聞こえて。今まで聞き流していたものが違って聞こえました。
細胞の声を聞いたことは今まで一度もなかったけれど、アーサーさんが猫を通してそれを伝えてくれて、細胞は戦争もしないし爆弾も落とさないという声があること、そしてそれを全然自分は聞けてないなってことを確認できたし、この紙芝居を通して生きてるの楽しいなって思えました。
感動する瞬間はたくさんあったのですが、違う世界のことを知ろうとすること、感覚を開いて違う世界と行き来をするっていうことが、つながり合う上で大事なのかなと思いました。
いい景色をたくさん見せていただきました。
初めての参加だったのですが、一番新鮮だったのは時間の長さが自分が普段体験しているものよりもすごく長いこと。これはどういうことかっていうと、普段ものすごく仕事に忙殺されていて、メールは溜まるし、何時間後までに〇〇をしないといけないという感じでやることが溜まっているのですが、畑では「このエリアは2年後からしか使えません」とか「2年後に完成します」とか。野菜も今日植えて明日育つってものではなくて、やっぱり半年とか1年をかけてゆっくり育っていくし。で、もっと言うとその長さっていうのと、そのプロセスの中にあるもの、その細やかさっていうものをすごく感じました。
野菜が育つまでに微生物が影響して働きかけて、野菜を育てることだったりとか、普段だったら外食行った時には出来上がったものが目の前に出てきますけれど、にんじんひとつ食べるにも抜くところから。そこにはぶちぶちって音がしたり、髭がついていたり、それを洗ったり、泥を落としたりっていう過程があって。そういう密度と長さを印象深く感じたなと思っています。
アーサーさんから大きいストーリーというのを聞かせていただいて、僕はそのことに対する正当性とか真偽みたいなものはまだ全然わからないことがたくさんあるなっていうのが正直なところですが、前職でワークショップや研修など教育の仕事をしている中で出会った製薬会社の方とか東電の方が自分と同じ普通の人で、その一人ひとりの中にはその一人ひとりが重ねている普通のプロセスというものがあることも、畑で行われるプロセス同様大事にしていきたいなと思いました。
究極的には全ての人がそれぞれの世界を持っていて、それぞれの世界でしか生きられないと感じているのですが、改めて自分が見ている世界とか体感しているものっていうのはやっぱり自分で作っている、自分が主体的に外にリアクションして作っているものなんだなっていうことを感じました。コロナが恐怖になるのもそうだし、それぞれがそれぞれのやり方で世界を想像してというか、作っているんだなと再認識しました。
だからこそ自分がどういう言葉とか、姿勢とか、身体の使い方で世界を作っていくかというのはすごく重要だなと思いました。