大地と共に歩む道(下)

文:岡 田 淳

生きるための知恵と想像力をよみがえらせるために

前回も少しお話したように、再びアメリカの地を訪ねることになった私は、ネイティブの人たちの知恵と技術を学ぶ機会を得た。そこでは自然の中でのサバイバル技術、つまり古来から伝えられた生活術、状況察知の方法、動物や人の足跡をとらえて追うトラッキング、自然の観察法や意識の使い方、哲学について教えていた。それらは深い知恵に裏打ちされたもので、すべてが繋がりをもったものだった。恐らくこれらの多くは、本来日本にもあった「生きる知恵」と多くの共通点があると思う。
今日、「持続可能な経済」「循環社会」「共生」という言葉が使われ始めている。それは、今まで私たちが自然から離れ、早急に便利なものだけを求めてきたことへの反省でもあろう。ただ、実際にそうした理想的なモデルを私たちの頭で考えてみようとすると、とても複雑で難しい。それほどに人は自然から離れた状態で、自らの生活文化や産業を作り続けてきた。あまりにも人間が作ったものだけを見、情報を受け続けて、新たな循環機能を生み出す想像力を失ってきているように思う。
人が本来もっている生きるための知恵と想像力を蘇らせるにはどうしたらいいのだろうか。
その答は、もう一度「自然」を見つめることでないかと思う。森に入り、川を歩いてみる。そこには無数の生命が息づいている。毎日毎日当然のごとく命の循環がくり返され、多くの生命が他の多くの生命を支えている。まさに生命の繋がりが目の前にあふれている。それが自然というものの姿だと思う。

闇の森でひとり眠る体験

ではその自然の中で私たちが行っているプログラムを少しご紹介したいと思う。
まずは、テントを使わず森の中で各自が自分の寝床を作って眠る「大地の声を聞くキャンプ」。これは高校生以上、大人を対象としたプログラムである。
昨年、ある高校の授業でこのプログラムを行った。広い自然の中で、バラバラに離れて一人ずつ自分の寝床を作り、眠った。これは高校生にとってとても衝撃的で、楽しい体験であったようである。夜の闇につつまれる不安と同時に、自然に包まれている心地よさがあったという。ある生徒は、毎日の生活の中で自分一人になるということが少なく、一人でいる時は寝ているか、さもなければ音楽、テレビ、本など、人の作った情報を受け続けていることに気づいたと言っていた。現代の私たちの住む世界から言えば「何もない」ところに身を置くことにより、全く違った多くのことが見えてくる。そんな体験は楽しいものである。

このプログラムの目的はまず「ひとりになること」。そして「自然と向き合い、自然の声を聞く」ということである。その次に「自分自身と向き合う」。そして「自分の言葉で、思いや新たな気づきを人に伝える」。そういう順序がとても大切な気がする。
大地の声を聞くということは野性を取り戻すことであり、心を開いて自然を受け入れることでもある。どんなにがんばってもその声は聞こえないが、心と体の力がぬけた時に初めて聞こえてくるものだと思う。

時計を使わず自然の時間に身を委ねる子どもたち

夏になると子供たちのキャンプも行なっている。私たちのキャンプは基本的に電気も水道もトイレも何もない場所で行なっているので、川に降りて水を汲み、その水で料理を作る。ヤマメやイワナが泳ぐ谷川の水はとても冷たいが、とてもきれいだ。しかしそれをポリタンクで運び上げるのはなかなか骨のおれる仕事である。子供たちはそれを経験すると水をとても大切に使うようになる。「水を大切に」などと言わなくても、勢いよく水を出して無駄にしている子がいれば、子供たちの間で注意が飛ぶ。

 

このキャンプには基本的に時間割りがない。起きたい時間に起き、寝たい時間に寝る。それでも、昼間思い切り体を使って遊び、労働すると、そう遅くまでは起きていられない。朝も美しい太陽が上れば、みんな寝ていられず外に飛び出してくる。
何をして遊ぶかは子供たちが考えて希望を出し、相談して決めていく。時にはやりたいことがいくつにも別れるが、皆でやったほうが楽しいことは一緒にやり、別々でもいい場合は別れて遊ぶ。川で遊ぶ子、木こりになる子、秘密基地やおうちを作る子など様々だ。大人は安全などの確認をしてやればよい。
最近は子供たちの生活も時間に追われるものになってきているので、キャンプ中は時計を使わない。そのかわりに自然の中で時間を知る方法を教える。それでも最初は、今何時?次なにするの?と先のことばかりを気にしている子供たちも、次第に自然の時間に身を委ね、いつの間にか山の風に包まれて走り回るようになる。

自然を楽しむのと危険を察知するのは一つのこと

自然の中に入り、自分の感性が開いた状態にある時、まわりのひとつひとつのことは多くの意味をもっていることがわかり、それをメッセ−ジとして感じ取ることができる。そのためには、私たちひとりひとりが、それを察知する心と感覚を磨かなければならない。原野の中で生まれ育ったネイティブの人でさえ、そうした能力を磨くことは一生の課題であったという。そういう心の状態によって得られる能力が、自分や家族、仲間を危険から守り、歩むべき道を知る道しるべにもなっていた。森の中で足下に落ちている一本の木の枝に気づけばよいのではなく、どうやって落ちたのかを感じ取る心の柔らかさが必要なのだ。ネイティブの人たちは、それをアウェアネス(気づき)の技術という。
安全は大切な事項だが、基本的に子供であれ大人であれ、自分自身を守る心構えを養うことが一番大切だと私は考えている。単に緊張してまわりを警戒するのではなく、感性を開いて、自然をよく見、感じる心が必要なのだ。自然から危険を教えてもらうためには、心が自然のメッセ−ジを感じられる状態でなければならない。珍しい鳥の声に気づくことと、斜面からの落石の音に気づくことは同じこと、つまり、自然を楽しむことと危険を察知することはひとつのことだと言える。そのためには、森に入る時に謙虚な気持ちになることが大切になってくる。

生かされていることへの感謝こそ自然が教えてくれる大切なこと

共生という言葉があるが、自然界の生きものはどのように生きているのだろうか。自然界には厳しい競争の原理が働き、弱肉強食の世界であると言われている。しかし競争もあるが、同時に共生もあるのが自然界だと思う。同じ場所に同じ大きさの生きものが並んでいればそこには競争が生じる。しかし、自然界では多くの場合、違う大きさや強さの生きものが、それぞれ違った形で生きているのを見ることができる。ぶつかり合いがあっても必ずしも淘汰されていくわけではない。互いにそれ以上傷つけない棲み分けの方向に動いていることも多い。一本の木に茂る葉っぱですら、光を受けるためにそれぞれが違う角度で茂り、石や木の下に隠れている虫たちも、体の大きさが違うことから、違う隠れ家を利用することができる。こうしたことは、川に入り自分の手で石をひっくりかえして生きものを調べ、木に集まる鳥や虫たちを観察しているとすぐにわかってくる。そしてそのわかったことを理科の知識として頭に入れるのではなく、私たち人間の生きていくために必要な知恵としてとらえる感性が必要ではないのか。

私たちが真に持続可能な生き方を願うならば、生命と言うものが互いにすべて繋がっているものであることを忘れてはならない。ネイティブの人たちの教えの中に「ひとつことを決めるにも七代先を考えて行いなさい」という言葉がある。今日自分や家族が生きるために、まだ見ぬ未来の子供達の生きる場を奪ってはならない。つまり「良いか悪いか」ではなく、「自然か不自然か」という判断ができる力をつけることが必要となる。人がこの地球で命をつないでいけるとしたら、それが許されるとしたら、自然の摂理に従った生き方をするしか方法はないだろう。「天地自然」、ネイティブの人たちの言葉で言えば「母なる大地」の声を聞きながら生きていくことを忘れなければ、生きることが許されるのである。自然は厳しい、と言われるが、その本当の意味は、謙虚にならずして生きてゆけるほど甘くない、ということなのだと思う。

最後に、私たちが一番忘れてはならないこと、それは、自分が今日自然の恵みを得て生かされていることに気づくことだろう。自分の力でがんばっても人の力はあまりにも小さい。技術や学問を身につけて得られる自信というものにはすぐに限界がくるが、今日ここに生かされていることに真に気づいたその時、私たちは本当の自信をもつことができる。そしてその本当の自信は、大きな力となって私たちを日々支えてくれるのだと思う。生かされていることへの感謝こそ、自然が教えてくれる最も大切なメッセージかもしれない。

 

月刊「湧」(地湧社) 2004,2 掲載
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