文:岡 田 淳
この秋、カナダのある原生林を訪ねる機会があった。先住民の地を訪ねるためバンクーバー島に渡った時のことだ。多くの森が切られてきた中で、島の真中にあるそのダグラスファーの森は、長く守られ保存されてきた。その中に足を踏み入れると、昼間でも太陽の光が直接入らず、ひんやりとして、地面はびっしりと苔やシダに覆われ、倒れて苔むした古木からは新しい木の芽が顔を出していた。その森の中にもっとも太い、高さ100メートル近い一本の木がある。アメリカ大陸がコロンブスによって発見された時、すでに300歳だったというその木は、今もなおしっかりと大地に根をはり、青空にむかってそびえ立っていた。
日本にもすばらしい古い森がある。数千年の樹齢をもつ屋久島の杉や白神山地のブナの原生林。他にも古い神社にはもっと多くの大木があるかもしれない。ただ日常の僕らの生活のまわりには、そうした大きな自然の命を感じる場がとても少なくなっている気がする。
僕は若い頃アメリカに渡り、環境学や野外教育などを学んだが、ウィルダネスと呼ばれる原野の中を歩いている時に、そこにいた先住民たちの存在と出会った。先住民たちは自然と共に生きる道を大切にしてきたが、その中にこんな教えがある。
「七代先のことを考えて、判断せよ」と。七代先といえば200年、あるいは300年先の森や自然のことである。
一本の木、もっと言えば一本の枝が必要になって切る時も、自分の七代先の世代にそれがどのようになるかを考えてから切りなさい、という。その正しい答えを知るには、木を切る前に、森に入る前に、正しい判断をさせてください、という祈りが必要となる。
さらに、先住民の教えの中に「人は自然のケアテイカー(Care Taker)であれ」というものがある。人は森や自然から日々多くの恵みを受ける。そのかわり、人は森や自然を助けることをしなさい、と。人は自然の管理者ではなく、ましてや所有者ではない。よいケアテイカーでいるためには祈りが必要であり、大地の前に静まり、その声を聞く必要があるのである。
自分の命よりも長く生きた木を目の前にした時、人は自分を生かしてくれている自然という大きなものを感じることができる。年老いて朽ちて行く倒木の上に、新しい木の芽が出てきているのを見つけた時、生命のつながりと循環を感じとることができるだろう。そうした生命に直接触れることで、自分の存在とは何なのか、そして自分はどう生きればよいのかを感じることができる。
今、自然の体験や環境教育の重要性が言われ始め、雑木林の作業体験や林業の間伐作業が有志の人たちにより行なわれ始めた。それはとてもいいことだと思う。ただそうした活動の中でまず大切なのは、木の命、自然の命と向き合うことだと思う。単に伐採の時期だから、間伐計画にあるから、人が植えた木だから、伐採してよい木だからということではなく、その木を切る時に、木の命、天地自然に思いを馳せることが大事ではないか。今その木を切ることが本当に許されているのか、そしてそれをする自分という存在は何なのか、と問い直す時をみんなでもちたいものである。
Plant A Tree 2004,1 掲載
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