「抑圧者と被抑圧者−その1」 つれづれ日記

たった2日間の家族水入らずの夏休み。
その2日目は台風。
でも、私たちが今いるところは静かに雨が降ったり止んだり。
風もなく、yahooのニュースを見なければ、台風が来ていることにも気づかないくらい。
そんなわけで、目の端に家族の存在を感じながら、静かにそれぞれがしたいことをしています。

今、読んでいる本がとても難しくて、なかなか読み進めないのですが、それでも時々「そうだ!」といたく共感する部分と出会うと、いきなり読むスピードが早まったりします。

感想は読み終えてからゆっくり書こうと思いますが、今はメモのつもりで、その共感した部分を書き出しておきます。

「…(抑圧するものたちにとっては)抑圧される人たちが、その抑圧の状況を前にして無力であると感じることや、その抑圧の状況を『限られた変えようのない状況』と見て、打開不能と見なすことに『埋没』する状態がいつまでも続くほうがよいのである」

「抑圧の関係が確立されたときに、すでにそこには暴力が始まっている。しかし、今日までの歴史のなかで、その暴力の火が抑圧された側からつけられたことはないのである。…抑圧する者たち、搾取する者たち、他者のありようというものをみとめない人たちが暴力の火をつけるのである」

「愛のない世界を始めるのは、愛されなかった人たちではない。愛さなかった人たち、他を愛することのない人たちである」

「テロを始めるのは、抑圧されている弱者ではない。その権力により 明らかな抑圧を生み出し、生活できず、世界の引き裂かれた状況にあるような人を生み出している暴力的な者たちこそがテロの始まりなのである」

『被抑圧者の教育学ーパウロ・フレイレ著』より抜粋 要約

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